どうも、soul jemです。
さて、、、
現在、京都に滞在中の私ですが、、、
京都といえば幕末においてまさに動乱の最前線、、多くの維新志士や武士たちが己の信念を胸に散った場所、、、
京都の街を歩いていると、そんな彼らの史跡を多く見かけます、、、
今回は、のんびりと京都の中心街を歩きながら、そのいくつかを紹介したいと思います、、、
それではレッツゴ~~!!
ぶらり幕末さんぽ
ということで、やってきたのは京都の中心街、京都河原町周辺、、、そう、この辺りこそ幕末の京都において最も血の気の多かった場所であります、、、
さて、まずは新選組ファンにはお馴染みのこちらから、、、
池田屋跡言わずと知れた池田屋事件のあった場所であります、、、この居酒屋になってからもうずいぶん経ちますね、、、
もうすっかり京都の名物スポットになっているようです、、、最近では、新選組の聖地巡礼をした後の打ち上げ場所として定番化しているのだそう、、、
私も1度だけ訪れた事がありますが、ファンには嬉しい演出がたくさんでとっても楽しかった、、、
まあお料理の味はチェーン店のそれですが、、そういう事ではないのです、、、池田屋事件のあった場所でお酒を飲む、、というシチュエーションに意味があるのです、、、
なんならまた行きたい、、、予約困難らしいけど、、、
新選組ファンには必須の場所ですよ、、、
ここは江戸時代、幕府が定めた法度や掟書が貼り出される札場があった場所、、、
板橋で斬首された近藤勇の首が晒されていたのもここです、、、新選組が英雄として名を挙げた池田屋からすぐそばというのも皮肉な話ですね、、、
そして、絶対に見逃してはいけないのがこちら、、、
三条大橋西側から二つ目の擬宝珠にある刀傷、、、
どうですか、ハッキリと分かりますよね、、、
これは池田屋事件の際についた刀傷といわれています、、、ここから池田屋までの距離を考えると実にリアル、、、
この刀傷をつけたのが長州側か新選組側かは分かりませんが、ゾクゾクしますよね、、、
もしかしたら土方なのかも、、、なんて妄想するのも史跡巡りの醍醐味です、、、
ここからの眺めも京都らしくて大好きです、、、夜にはマジでカップルが等間隔で座っています、、、
橋のたもとにはオシャレなお店やカフェが、、ハッ、、、
またお前かスターバックスッ!!
ふんぬ〜~!!(怒) おのれスターバックスめ、、、オシャレスポットだけじゃ飽き足らず、歴史的な場所にまで手を出しおって、、
おまえら一体何がしたいねん、、世界征服でもするつもりか、、(⇦スターバックス行ったことない人)
ぜひ今度行ってみよう、、、
ちなみにこちらは祇園の八坂神社、、、この道路を挟んで向かいにあるのが、、
祇園町会所跡
ツルハドラッグがある場所ですね、、、池田屋事件当日、新選組は軽装で壬生を出た後、ここに集合し装備を整え出動したのだそう、、、
ここから池田屋までの距離もまたリアルです、、、
さておき、、、
お次にやってきたのは木屋町通り、、、おや、何か石碑がありますね、、、
そう、ここは土佐藩邸があった場所、、、
当時、幕末政局の主導権を握っていた土佐藩の京都本部であります、、、
当然、坂本龍馬や中岡慎太郎も足繫く通っていた場所です、、、
そしてすぐそばには、、、
岬神社(土佐稲荷)
もともとは土佐藩邸内にあった稲荷神社、、、通称「土佐稲荷」、、、
藩士だけではなく広く京の町衆の信仰を集めていたため、一般の人がお参りするための道が藩邸内に設けられていたそう、、、
境内には小さな坂本龍馬の像が、、、
なかなかによく出来た像です、、、カッコイイ、、
拝殿にも龍馬肖像画が、、、
しっかりとお参りして、、、
そばにはこんな石碑も、、、
なにやら龍馬の妻、お龍は独身時代、この辺りに住んでいたのだとか、、、
龍馬ファンが集うお店なんかもあったりして、、、
さすが幕末最大のヒーローですね、、、
さらにはこちら、、、
酢屋(すや)
海援隊の京都本部であり、実際に二階に龍馬が住んでいたという、、、
現在も現役で営業されており、龍馬が住んでいた二階は「ギャラリー龍馬」として一般公開されています、、、
龍馬ファンには必須の場所ですね、、、
ちなみに、この辺りは材木商が多かった事から木屋町と名付けられました、、、木屋町通りに流れるこの高瀬川も材木や物資を運ぶための運河だったのだそう、、、
そ、そうなのか、、何度も京都に来ているのに今初めて知ったぞ、、、
そして、こちらはお隣りの通り、河原町通り、、、こちらにも石碑がありますね、、、
ここは龍馬の相棒であった中岡慎太郎が暮らしていた場所、、
中岡慎太郎は当時、菊谷という書店に身を寄せていたのだそう、、、
そして、そこから少し歩いた場所には、、、
そう、ここは近江屋事件のあった醤油商・近江屋があった場所、、、
慶応3年11月15日(1867年)の夜、二人はここ近江屋の二階で火鉢を囲んでいたところ、幕府の京都見廻組と思われる暗殺団に襲われたのです、、、
龍馬は額に致命傷を受けて即死、、深手を負った中岡慎太郎も2日後に死亡しました、、、
襲われたのは、先ほど紹介した酢屋から引っ越してきたばかりだったという、、、
時代を動かしたこの二人の亡き骸は、京都東山の霊山護国神社に埋葬されています、、、
京都 霊山護國神社&幕末志士の墓参り - soul jemの聖地巡礼日記 (hateblo.jp)
なお、ここは現在「かっぱ寿司」となっています、、、
いや「かっぱ寿司」か~い!! 、、と思ったけど、近江屋事件があった場所で寿司をつまむのも意外とアリかもしれない、、、
すぐそばには、池田屋事件のきっかけとなった古高俊太郎邸跡もありますよ、、、この場所に長州の武器弾薬が集められていたわけですね、、、
マジで血の気が多すぎるぞ、、、幕末の京都、、
さて、長州の話が出たところでお次はこちら、、、
ホテル オークラ 京都そう、言わずと知れた超一流ホテルですが、、、
実はこの場所、、長州藩邸があった場所なのです、、、
過激な尊皇攘夷運動の中心的存在だった長州藩ですが、、まさにここが巣窟、巨大なアジトだったわけですね、、、
池田屋事件の後、禁門の変で敗れた長州は、この藩邸に火を放ち京から逃げたという、、、その火が原因で元治の大火(どんどん焼け)になったとかならないとか、、、
彼を顕彰する像がホテルの裏側にあります、、、
おお、思っていたた以上に立派な像です、、、カッコイイ、、
過激な長州藩のリーダーというよりも、行き過ぎた彼らの行動を諫め、宥める役割が大きかったイメージです、、、
だからこそ、薩長同盟にも理解を示したのでしょう、、、
長州藩のリーダーにもかかわらず、生涯一人も殺さなかった、という話は有名ですね、、、
文武両道で人望も厚い、、相当な人格者だったのではないかと、、、維新後は木戸孝允と名乗り、大久保利通、西郷隆盛と共に「維新の三傑」として明治政府を支えました、、、ちなみに廃藩置県は彼の功績です、、、
今の私たちの生活があるのは彼のおかげでもあるのです、、、
私は新選組ファンではありますが、彼のファンでもあります、、、
彼を献身的に支えた芸妓・幾松とのラブストーリーもとっても素敵です、、、
幕末ファンには必須の場所ですよ、、、
そして、長州藩邸跡のすぐそばには、そんな二人が暮らしていたという場所が、、、
桂小五郎 幾松 寓居跡
ここは、数年前まで「幾松」という当時の建物を残した老舗料理旅館だったのですが、残念ながらコロナの影響で閉店されました、、、
新選組から逃れるための抜け穴や隠し階段が今も残っているそうですよ、、、
国の重要文化財だったそうなので、いつかまた別の形で公開してほしいものです、、、
ここは京都二条から伏見を繋ぐ高瀬川水運の積み降ろし場だった場所、、、
坂本龍馬はここから伏見の寺田屋へ行き来していたわけですね、、、確かに土佐藩邸や酢屋からも近い、、、
さすが当時の首都、、機能的です、、、
さて、お次は場所が少々離れまして、、、
こちらは京都御苑、、、
現在は一般公開され、広大な公園として市民に親しまれています、、、
今回、初めて訪れたのですがまあとにかく広い、、、
徒歩で巡るのは相当に疲れそうです、、、
さて、なぜ京都御苑までやってきたかと言うと、こちら、、、
蛤御門(はまぐりごもん)
そう、ここは1864年、禁門の変で長州藩と会津藩、薩摩藩が激戦を繰り広げた場所、、、蛤御門の変とも呼ばれていますね、、、
池田屋事件で怒り狂った長州の過激派は、桂小五郎らの説得を無視して京都に進軍、、
まさにここで会津、薩摩軍と衝突したのです、、、
その激しい戦いの弾痕が、今もこの門には残っています、、、
ありました、、、これですね、、、
それも一つや二つではなく至る所に、、、実に生々しい、、、
いかに激しい戦闘だったかを物語っていますね、、、
弾痕が白くなっているのは皆が触るからなのだそう、、、
敗北した長州軍は長州藩邸に火を放ち京から逃亡、、、
これにより長州藩は完全に朝敵となるのです、、、
この事件をきっかけに、京都は火の海となり(元治の大火)首都機能が崩壊、、明治天皇は江戸に行幸、、首都を東京に移す要因の一つとなったと言われています、、、
まさに歴史を動かした事件の現場ということですね、、、
や~京都は本当に勉強になります、、、
ずっと実物をこの目で見てみたいと思っていたので大満足です、、、
幕末ファンは必須の場所ですよ、、!!
さて、、、
それでは最後に、そんな長州のリーダー桂小五郎が維新後に住んでいたという別宅が今も残っているらしいので行ってみる事に、、、
維新後なので木戸孝允ですね、、、
先ほどのホテルオークラから北へ徒歩5分くらいでしょうか、、、
ありました、、ここですね、、、
京都市職員会館 かもがわ現在「木戸孝允邸宅跡」は京都市が管理しているので、見学するにはここで申し込みをする必要があります、、、
門前にはしっかりと石碑が、、、維新後は東京に居を移していた木戸孝允ですが、京都出張時はこの別宅に住んでいたのだそう、、、
ここが受付です、、、
まあ見学申し込みといっても名前と住所を書くだけなんですけどね、、、
さあそれでは、、、
木戸孝允邸宅跡
こ、ここが維新後に木戸孝允が住んでいた建物、、、ち、小さい、、、
そう、実際にはこの付近一帯が木戸孝允邸だったそうなのですが、現在残っているのはここだけなのだそう、、、
こじんまりとしたかわいい建物ですね、、、
もともとは公家屋敷だったそうな、、、
裏から見るとこんな感じ、、、維新後、明治政府内で権力争いが絶え間なかった事や多くの問題が原因で、木戸孝允は心身を害します、、、
そして京都出張中に病が重症化して、この別邸で療養したと言われています、、、
その際の明治10年(1877)5月19日、、親交の深かった明治天皇が公の見舞いに来られたのだそう、、、
当時、天皇が民間人の見舞いに自ら出向かれる事は公では初めてであり、大変異例の事で、今でもそれを示す石碑が残っています、、、
本当に信頼されていたのですね、、、
そして、その一週間後の26日、、木戸孝允こと桂小五郎はこの別宅で息を引きとったのだそう、、、享年44歳の若さでした、、、明治10年と言えば西南戦争の真っ只中、、、彼の最期の言葉は「西郷もいい加減にしないか、、」だったそう、、、
まるで親友にかける言葉のようですよね、、、
室内には彼の写真と年表が立てられています、、、
建物からはこんなお庭が見渡せます、、、
きっと彼はこの景色を眺めながら、日本の行く末を憂いていたのでしょう、、、
文武両道で人望も厚く男前、、幾松との純愛ストーリー、、近代日本の礎を築いた功績、、さらに新選組にとって最大の敵だったという事実、、、
そして何より天皇からも信頼されるほどの人柄、、、
ぶっちゃけ、知名度が低過ぎると思うのは私だけでしょうか、、、なんなら次の大河は彼でもアリではないかと思うレベル、、、
そんな木戸孝允は、京都東山にある霊山護国神社に最愛の妻、幾松と共に眠っています、、、
京都 霊山護國神社&幕末志士の墓参り - soul jemの聖地巡礼日記 (hateblo.jp)
まあ何はともあれ、ここ「木戸孝允邸宅跡」はそんな事を感じてしまう場所でありました、、、とても貴重な史跡を見せて頂き感謝です、、、
少々マニアックではありますが、幕末ファンにはかなりオススメですよ、、、
ということで、今回の京都幕末めぐりはこれにておしまい、、、
全て京都中心部にある史跡なので3時間くらいあれば巡れると思いますよ、、、
激込みの有名観光地も良いですが、、現代社会の礎を築いた彼らの足跡を辿って幕末を感じてみるのも一興かと、、、
皆さんもぜひ、、!!
読んで頂いた方々に感謝です、、、
ありがとうございました、、、